東京地方裁判所 昭和36年(ワ)2614号 判決 1962年7月30日
第一信託銀行
理由
先ず、被告東洋観光興業株式会社が本件係争約束手形を振り出したかどうかについて判断するのに、証拠によれば、次の事実が認められる。
すなわち、昭和三十五年十二月初旬頃、日本観光開発株式会社の常務取締役と称する松本某が、被告会社に無担保で貸し付ける者があるといつてきた。被告会社の常務取締役武田思郎及び経理課長磯崎勝は、同年同月十四日神田の千代田ホテルで日本逓友株式会社々長という春日賢を紹介され、同人から、第一信託銀行が被告会社に融資する旨の話を聞き、さらに第一信託銀行の顧問弁護士と自称する豊島福之を紹介されたが、同弁護士は、被告会社に借受金の裏付として商業手形を振り出すことを要求した。
これより先、第一信託銀行の専務取締役吉瀬俊助は、同年十二月十三日頃豊島福之、浅見秀雄から、「被告会社に金額一千万円の約束手形二十通を振り出させ、第一信託銀行がその預り証を発行すれば、某外廓団体がそれを担保として二億円を融資し、被告会社はその内から若干を第一信託銀行に預金することになつている」と聞き、第一信託銀行としては、その約束手形の預り証を発行することを予め承諾していた。被告会社の武田常務及び磯崎経理課長は、同月十六日午後三時頃第一信託銀行に赴き、応接室に通されて、吉瀬専務及び同銀行の相談役と称する浅見秀雄に紹介された。武田常務及び磯崎経理課長は、翌十七日、銀座の資生堂において、豊島福之から、「被告会社が商業手形を振り出すについては、第一信託銀行から、被告会社に宛て、その預り証及び割引利息の計算書を発行する。」と聞いたので、被告会社名義の手形を発行しても、それが第三者によつて詐取されるようなことはよもやあるまいと判断した。そして、約束手形用紙と被告会社及び山陽興業の印鑑とを用意して、同月十九日(月曜)午前九時半頃第一信託銀行に赴き、その二階会議室で、吉瀬専務取締役、営業部長町田俊一、浅見秀雄、豊島福之に逢い、浅見秀雄が「手形の割引の対価は、直ぐここに持つて来る。」といつたので、被告会社の武田常務取締役は、被告会社として金額一千万円の約束手形二十通を発行し、第一信託銀行又は同銀行と密接な関係のある外廓団体から、第一信託銀行を通じてそれを割り引いて貰う意思の下に、同日正午頃、磯崎経理課長に命じて、本件係争手形を含む約束手形二十通に、被告会社を振出人、山陽興業を受取人且つ白地裏書人として、それぞれ記名捺印させ、これを第一信託銀行の吉瀬専務に交付した。吉瀬専務は、これらを受け取り、前記のような趣旨で、それと引換えに、永井営業部次長に作成させた第一信託銀行名義の受取人山陽興業に宛てた「約束手形預り証」一通、及び満期まで九十日間、日歩三銭二厘の利息を控除した計算書一通を、被告会社武田常務に交付したことが認められる。
右認定の事実によれば、被告会社は、昭和三十五年十二月十九日、山陽興業に宛て、係争手形一通及びその他の手形十九通を、第一信託銀行又はその外廓団体から割引を受ける意思を以て振り出した、ということができる。
そこで次に、被告会社がいかにして本件係争手形の占有を失つたかについて検討するのに、証拠によれば、第一信託銀行の吉瀬常務は前記趣旨の下に、同銀行名義の右約束手形二十通の預り証を豊島福之に交付するや、同人は「金主のいる日活国際会館に行く。」といつて、浅見秀雄と共に同会館に赴いた。第一信託銀行の町田営業部長は、同日午後二時頃、豊島福之及び浅見秀雄から、「約束手形二十通の預り証だけでは金主から金が出ない。原本を見せろといわれた。」と聞いて、同信託銀行の営業部証券係の上原万寿己に右約束手形二十通を持たせて、日活国際会館の日活ホテルに赴かしめた。豊島福之、浅見秀雄は、同ホテル六階のロビーに上原万寿己を案内し、豊島福之は同人に対し、「約束手形二十通を先方に見せない限り金は出せない。」といい、浅見秀雄は、「豊島は元検事で間違いのない人間だ。手形の授受については一切同人に任せてある。手形の交付については自分から吉瀬専務に連絡する。」といつた。その間に豊島福之は上原万寿己から無言の内に封筒入りの約束手形二十通を取り上げ、同人が、現金が直ぐ交付されると信じて別にそれを制止しようともしない内にその場を立去り、日活ホテルを出て行方をくらましたことが認められる。
以上の認定事実と後段認定の事実とを綜合すれば、被告会社の代理人武田常務取締役は、吉瀬専務、浅見秀雄、豊島福之の言を信じ、豊島福之から、係争約束手形を含む約束手形二十通の割引の対価を受けられるものと誤信し、豊島福之によつてそれらを詐取せられ、その占有を失つたということができる。
そこで、最後に、原告が本件係争手形を取得するについて、悪意又は重大な過失がなかつたかどうかについて判断するのに、証拠によれば、次の事実が認められる。
すなわち、豊島福之は、同年十二月十九日午後二時頃、日活ホテル六階ロビーにおいて、右のように、上原万寿己から、前記約束手形二十通を入手した後、直ちに自動車で銀座の緒方事務所に赴き、そこで、手形ブローカー小松崎重、田島武二、青木貞夫、清水徳太郎にその割引を依頼し、田島武二には、未だ自分の裏書をしないまま約十枚を渡した。そして同月二十二日(木曜)午前十時頃、神田の喫茶店「らんぶる」において、青木貞夫に、本件手形を含む前記約束手形五通を手交した。右両名には、それらの約束手形は都内の金融業者から普通の割引利率では到底割引けないことがその時までにわかつていたので、どんな高利率でも現金化しなければならないということに、二人の話は一致していた。右約束手形五通は、青木貞夫から神田の金融業者小島某に、同人から更に芝公園何号地かの金融業者渡辺某の手に渡り、同月二十二日(木曜)、同人方で、同人、豊島福之、小島某、青木貞夫、大京商事の代表取締役辻谷勝三らが協議の上、大京商事が原告からそれを割引いて貰うことになり、豊島福之、渡辺某から、辻谷勝三に手交されたことが認められる。
本件係争手形の裏書人大京商事が本件手形を入手し、原告に裏書譲渡するに至つた経緯について、証人久保田直之、辻谷勝三、田中俊夫、大和田義雄、川村浩、武田思郎、豊島福之、清水奎司、桑島裕らは、次のように証言する。
すなわち、大京商事は、昭和三十五年十二月頃に、原告に対し約三千二百万円(但しその数額は、大京商事の商業帳簿によれば、不明確である)に達する鉄鋼、鋼材の買掛代金債務があり、その支払に苦しんでいた。大京商事の代表取締役辻谷勝三は、同年十二月二十日以前に、その取締役久保田直一及び原告に対し、「自分は或る観光会社の為に銀行から融資してやつた謝礼として、二千万円位の金が手に入る。」といつていた。
大京商事の取締役久保田直一は、同社代表取締役辻谷勝三が、前記約束手形五通を受領した昭和三十五年十二月二十二日午後五時頃、港区新橋の第一ホテルのロビーにおいて、同人から本件手形一通の交付を受け、それに大京商事の裏書をし、翌二十三日(金曜)、原告会社に行き、代表取締役本田秀雄に本件係争手形を交付し、「この手形は、社長(辻谷勝三)が、銀行の融資に対する謝礼として貰つたものだ。」と説明した。辻谷勝三は、翌二十四日(土曜)、久保田直一に対し、残りの約束手形四通は、「今日は土曜で駄目だから、二十六日(月曜)に持つて来る。」といつていた。豊島福之は、同月二十四日午前中に芝増上寺附近の原つぱで、辻谷勝三に右約束手形四通を交付し、同人は同月二十六日新橋の第一ホテルで久保田直一にそれらを交付した。同人は、原告会社にそれを持つて行き、前記三千二百万円の買掛代金債務の支払のため、その内二通を本田秀雄に交付した。
ところが、原告会社代表取締役本田秀雄は、第一信託銀行が同月二十四日附の日本経済新聞に掲載した本件係争手形を含む約束手形二十通の無効公告を久保田直一に見せ、「こういう詐取手形を持つて来るとは怪しからん。」と叱つたが、同人がその日持つて来た約束手形四通については、格別の反応を示さなかつた。
これより先、辻谷勝三は、同月二十二日(木曜)、第一ホテルにおいて久保田直一に対し、大京商事振出の金額二千五百万円の持参人払式小切手一通を作成することを命じておき、久保田直一は、同月二十六日(月曜)第一ホテルで辻谷勝三に対し、前記約束手形四通と引換えに、その小切手一通を交付した。それは、辻谷勝三としては、右約束手形五通(金額合計五千万円)を割引き、その半額を、自分が使うという約束で、豊島福之からその交付を受けたので、その見返りとして、先方に保証の趣旨で二千五百万円の持参人払式小切手を交付したものであつた。(この時、大京商事は、既に手形不渡処分を受けていたのであるから、かような小切手の交付自体ナンセンスである。)
辻谷勝三は、同月二十二日(木曜)午後五時頃新橋第一ホテルに久保田直一を呼び、同人に産経新聞の株式欄にあつた被告会社の株価の記事を見せ、「この会社は、株が上場される会社だがその手形が入つたから、これを原告会社に持つて行つてくれ。全部で一千万円のもの五通が来る。手形については心配することはない。」といつて、胸のポケツトから本件係争手形一通を取り出して同人に交付した。
豊島福之は、青木貞夫に、前記喫茶店「らんぶる」で係争手形を手交するとき、その裏書欄に裏書をした(この点が措信できないことは、後述)。久保田直一は、同月二十二日午後八時頃大京商事の取引銀行である大和銀行有楽町支店営業室に同銀行員清水奎司を訪ね、同人に係争手形と他の約束手形一通と、新聞の株式欄を見せ、それが、被告会社の振出であることを説明すると、同人は驚いていた。
久保田直一は更に、同日夜桑島裕を訪ね、同人に、大京商事が本件係争手形を入手したことを告げた。(これらの事実からすると、辻谷勝三は、久保田直一をして、大京商事が何時本件係争手形を入手したかを第三者に印象づけようと努力していたと、推認される。)
被告会社の武田常務は、同月二十一日(水曜)頃、三井銀行銀座支店(係争手形の支払場所)に赴き、同銀行支店長大和田義雄に対し、被告会社が振り出した係争手形の外、手形金額を一千万円とする約束手形十九通、合計二十通が、豊島福之によつて詐取されたことを告げた。
原告会社の経理担当社員田中俊夫は、同社代表取締役本田秀雄に命ぜられて、大京商事代表取締役辻谷勝三と共に、同月二十三日(金曜)午後三時頃、右三井銀行銀座支店に赴き、辻谷勝三は外で待ち、田中俊夫のみが店内に入り、預金係主任川村浩、同銀行支店長大和田義雄に会い、係争手形の印鑑の真否を照合したところ、同人らは、その印鑑は被告会社の届出印鑑と相違しているのみならず、代表者の氏名も異なり、既に、同日以前に、被告会社から同銀行支店に盗難届がなされていること、第一信託銀行は、翌十四日、新聞に無効公告を掲載するであろうことを告げた。それに対し、田中俊夫は何らの感情の動揺を示さず、帰社後、本田秀雄代表取締役に右の旨を報告した。
辻谷勝三らは、同月二十六日以後、右約束手形五通を渡辺某に交付した高木某に対し、それらが被告会社からの詐取手形であることを責めたが、埓が明かず、富士製鉄株式会社と三機工業株式会社振出の約束手形を以て、原告会社に交付した前記約束手形三通と差換えることになり、辻谷勝三は同月二十六日頃原告会社に赴いたが、原告会社はその差換えを拒否した。
被告会社の武田常務取締役が、昭和三十六年三月十四日、原告会社に本田秀雄代表取締役を訪ねた際、同人は、「大京商事は、原告会社に、金額を一千万円とする約束手形五通を、割引いて貰うために持つて来たかも知れない。」と答えたことが認められる。
以上の各証言を、通り一遍に綜合すると、大京商事代表取締役辻谷勝三は昭和三十五年十二月二十二日、芝公園附近において、豊島福之及び渡辺某から、本件係争手形一通及び前記約束手形四通をいわゆる半使いの約束で割引くことを依頼されながら、同社の取締役久保田直一をして、大京商事の原告会社に対する約三千二百万円(金額は不明)の債務の弁済に充てるため、原告会社にそれを裏書譲渡せしめ、原告会社は、それが豊島福之、渡辺某から割引を受けるために大京商事に裏書譲渡されたことを知らないで、大京商事から、その裏書譲渡を受けたというに帰着する。
しかしながら、原告が本件係争手形を取得するについて、果して善意であつたかについては、次の疑点がある。
すなわち、原告が昭和三十五年十二月二十三日、大京商事から本件係争手形の裏書譲渡を受けた当時においては、大京商事は既に銀行の手形不渡処分を受けていたこと、従つて大京商事がその頃倒産に瀕していたことを知つていたのであり、かような支払能力のない大京商事が、手形金額が一千万円という莫大な金額で、しかも、振出人がその株が上場されている被告会社であるという約束手形を所持していることについては、取引の通念に照らし、疑念を懐くべきである。原告がそれに疑念を懐かなかつたということは、実に驚くべきことであり、当裁判所としては、前段判示の事実に照らし、むしろ原告会社、豊島福之、渡辺某、辻谷勝三と共謀の上、本件係争手形の善意取得を種々工作の上、本訴を提起したものと推認せざるを得ない。
既に見たように、原告会社は、同年十二月二十三日、社員田中俊夫をして、三井銀行銀座支店に本件係争手形の振出人、即ち被告会社の印鑑照合に赴かせ、前記支店長らから、印鑑相違及び代表者の氏名が異なつていること、更に被告会社からその盗難届が提出されていることを知つたに拘らず、敢えて辻谷勝三及び久保田直一に対し、印鑑相違及び右窃取の事実を問い訊さず、同月二十六日、久保田直一が原告会社に金額一千万円の約束手形四通を持つて来た際、係争手形が詐取手形であることを一応叱責したものの、右約束手形のうち二通を受領した点。
原告会社の大京商事に対する債権は、原告が一応立証するところであるが、それに照合する、大京商事の原告会社に対する債権債務の立証は、原告は全然試みず、原告会社が大京商事に対する債権債務を記帳した商業帳簿は、証人磯崎勝(被告会社経理課長)の証言によれば、甚だ杜選であり、しかも、その記載の態様から、到底右両者間の取引継続中に作成されたものとは判断し得られない点。
原告会社の経理関係担当取締役田中俊夫は、同月二十三日、原告会社代表取締役本田秀雄から本件係争手形の印鑑照合を命じられ、同日午後三井銀行銀座支店に赴き、同銀行支店長らにその真否を問うた際、同支店長らから、翌二十四日、被告会社から日本経済新聞に係争手形等二十通の手形について無効公告が掲載されるであろうことを告げられたに拘らず、原告会社は、被告会社には勿論、大京商事にもそのことについて問合わせをしなかつた点。
辻谷勝三が、手形金の総額が五千万円に達する約束手形五通を、いわゆる半使いの約束で豊島福之から割引を引き受けたということが、常識では通常あり得べきことと到底考えられない点。
大京商事は、原告会社に対し、三千二百万円位の買掛代金債務しかないのに、久保田直一(同人は、それを原告会社から割引くことを知らない)は、同月二十六日、原告会社に前記約束手形四通(手形金額合計四千万円、係争手形のそれと合わせて五千万円)を持参した点。
久保田直一が同月二十三日、原告会社代表取締役本田秀雄に対し、本件係争手形は、辻谷勝三社長が某観光会社のために銀行から融資してやつたことに対する謝礼の趣旨で貰つたと供述したことは、その証言を文字どおり解釈するとすれば、辻谷勝三が某観光会社のために数億の融資を斡旋してやつたことになり、自分の会社である大京商事の倒産を防ぐためには何ら融資の適切な手段を講じることができなかつたことを意味し、その故に、手形の不渡処分を受けた会社の代表取締役が、第三者のために、かような数億の金融の斡旋をなし得るとは到底考えられない点。
さらに、証拠によれば、原告会社の振替伝票にはすべて担当者の捺印があつたに拘らず、同月二十三日本件係争手形を仮受理したことを記載した伝票と、期末に、大京商事に対する売掛代金とを相殺した旨記載した伝票には、一切担当者の捺印がなかつた。原告会社には、大京商事の原告会社に対する昭和三十五年十月十七日以後の納品書控がなかつた。原告会社の領収書の控には、昭和三十五年十二月二十七日及び同月二十九日発行された二通の領収証の控の間に、大京商事から同月二十三日、被告会社振出の約束手形三通(手形金額合計三千万円)を受領した領収証を発行した旨の控が挿入されてあつた。原告会社の受取手形記入帳の昭和三十五年十二月二十三日の欄に、大京商事から金額一千万円の約束手形一通を、「不渡手形の引当」として、同月二十六日の欄に、同一金額の約束手形二通を「一部及び売掛充当」として受領した旨記載されてあつたが、十二月二十三日欄の「不渡手形の引当」という文字がその後抹消され、「預り手形」と書き加えられ、同月二十六日の欄二行は、「一部及び売掛充当」の文字と共に、横線を以て抹消され、「保留」と記載されていたことが認められる。
当裁判所は、以上認定の事実、原告会社が善意の取得者であることについて疑問として挙げた前記数点の事実、及び弁論の全趣旨を綜合して、原告会社は、大京商事に対し、三千二百万円という莫大な売掛代金債権を有したことはなく、偶々大京商事に対し若干の取立不能の債権があることを奇貨とし、本訴を提起するため、恰かも大京商事に対する債権者であるかのように工作し、本件係争手形の善意取得を装い、当裁判所を欺罔し、勝訴判決を得て、被告会社から係争約束手形金を取り立てるため本訴を提起したものと判断せざるを得ない。換言すれば、原告会社は、被告会社が、豊島福之により、本件係争手形の占有を奪われたことを知つてそれを取得したものというべきであるから、被告会社の手形法第十六条第二項の抗弁は理由がある。
よつて、原告の本訴請求は失当である。